いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう


お母さんへ
お母さんに手紙を書くのは何年ぶりかな。久しぶり、お母さん。音は27歳になりました。とっても元気にしています。
音は今なんと東京に住んでる。雪谷大塚という坂の多い町で、一階にラーメン屋さんのあるアパート。今はずっと介護の仕事をしています。立派な資格も持ってるんですよ。休みくれとか、もっと給料くれとか思う。大変は大変。でもありがとうと言われると頑張ってよかったなって思える。努力ってときどき報われる。お金は貯まらない。でもわたしには足りてる。ちょっとのいいことがあれば、夜寝る時に思い出せる。優しい気持ちになれる。寝て起きたら次の日が来る。わたしには思い出が足りてる。坂の上に立つとね、東京の夜の街が見渡せるの。そこで会ったことのない人のこと、想像するのが好きです。今あの鉄塔の下で女の子がマフラーを落とした、パン屋の男の子が拾ってあげた。ありがとう、気をつけて。深夜の町を走り抜けていくバス。後ろから3番目の座席に座った引越し屋さんと介護福祉士さん。お疲れ様でした、お疲れ様でした。この町にはたくさんの人たちが住んでるよ。ときどき思うの、世の中って綺麗なものなのかな、怖いものなのかな。混ざってるのかなって思った。だから綺麗なものは探さないと見つからない。そんなことを教えてくれた人がいた。ひとりで見る景色とふたりで見る景色は全然違ってたよ。お母さんにお願いがあるの。わたしの恋をしまっておいてください。わたしね、お母さんが言う通り好きな人と出会えたよ。ちゃんと恋をしたよ。6歳のわたしに教えてあげたい。あなたはいつかひとりじゃなくなるよ。その人はトラックに乗って現れる。トラックの荷台にはたくさんの桃の缶詰が積んであって、飴をひとつあげるとバリバリと噛んで食べる。恋をすると楽しかったことは2倍になるよ、悲しかったことは半分になるよ。それまで待っててね。頑張って待っててね、って。この恋はわたしの大切な思い出です。お母さん、どうかしまっておいてください。大好きなお母さん、また手紙書くね。じゃあね。
杉原音




振り出しじゃないですよ。杉原さん、振り出しじゃないですよ。前にここで会った時の杉原さんと、今の杉原さん、全然違います。苦しいこともあったけど全然違います。変わってないように見えるかもしれないけど、全然違います。人が頑張ったのって、頑張って生きたのって目に見えないかもしれないけど、心に残るんだと思います。杉原さんの心にも、出会ってきた人たちの心にも、僕の心にも。北海道遠くないです。何回でも来ます。道、ありますから。そこ走ってきます。車でも電車でも。会津に行く約束だってまだ果たしてないです。猪苗代湖だって見せたいし、じいちゃんの種の大根も食べてもらいたい。道があって、約束があって、ちょっとの運があれば、また会えます。